貝原益軒(1630-1714)の「養生訓」に李東垣(とうえん)1180-1251)の言として、「細末の薬は経絡にめぐらず、只、胃中臓腑の(しゃく)(とどこおること)を去る。下部の病には、大丸を用ゆ。中焦の病は之に次ぐ。上焦を治するには極めて小丸にす。薄き糊にて丸ずるは、化しやすきに取る。濃き糊にて丸ずるは、遅く化して、中下焦に至る。丸薬、上焦の病には、細にして柔らかに、早く化しやすきがよし。中焦の薬は、小丸にして堅かるべし。下焦の薬は、大丸にして堅きがよし。

振出し薬と丸剤の大きさ

富山県薬剤師会理事 大橋 清信

(1)室町時代末頃、多くの(きん)創医(そうい)(金属の武器で受けた傷を治療する者)は、戦乱が治まると産科医を兼ね、用いた薬の一つに「山田の振出し」があった。振出しは、薬物を細かく刻み布袋に入れ、沸湯を注ぎ浸出して服用するから、煎じ薬より応急に投与でき、軍中で手負いの際にこの剤形が好まれての故である。その後、安栄湯(あんえいとう)の名を得て、軍中七気(切傷、突疵、矢疵、打身、産前、産後、血の道)を治す方とされた。

漢方でいう湯剤は、細切した生薬に一定量の水を加えて加熱し一定時間後にろ過して、一定量を分服するのであるが、元来、水から煮るのに時間を要するが、水が生薬に十分に浸入して薬物を溶出しやすくする。また、直接熱湯を注ぐ時は表皮が固化して水の浸入を妨げ、内容成分の溶出を妨げる反面、揮発性の有効成分の揮散を防ぐ利点がある。

このため、振出し薬は、400年前に今日のティーパックの先駆けをなしており、先人の創意工夫に敬意を表せざるを得ない。

その後、江戸期には喜谷実母散、赤井竜王湯、安栄湯など同類が続き、富山の配置薬でも重要品目として引き続き顧客の愛用を受け、大正初期の営業案内には七気湯など見られたようである。

是、頤生微論(いせいびろん)の説なり。また、湯は久き病に用ゆ。散は急なる病に用ゆ。丸はゆるやかな病に用ゆる事、東垣が珍珠嚢(ちんしゅのう)に見えたり」を、引用している。

 六神丸、救命丸、感応丸、如神丸、赤玉はら薬、八味丸などの丸剤の大きさには、それぞれの根拠があるわけである。あらためて先人の智慧を思う始末である。



<参考文献>貝原益軒 「養生訓」78

画像協力:中村学園大学図書館



   「養生訓」第7、8巻


(2)五臓六腑と云えば、「肝・心・脾・肺・腎」の五臓と、「胃・胆・小腸・大腸・膀胱に加えて三焦」の六腑を云う。漢方特有の三焦は実態を伴わない病気の部位を示す概念であり、解釈に幾多の変遷があったようだが、近代医学的に病気の徴候の部位を示す概念として、知覚及び自立神経の末梢分布に応じて頭部、頚項部、上肢・胸部を横隔膜を境に支配するを上焦と呼び、横隔膜より臍(へそ)の部分に至る上腹部とその背部を支配するを中焦、さらに下腹部及び下肢を支配するを下焦と呼ぶのが定説のようである。

 中国の北宋時代末期に「太平恵民和剤局方」が刊行され、当時民間において効能の著しいとされる湯剤、丸剤、散剤の代表的薬方を収載した。丸剤の大きさが細麻大、麻子大、小豆、梧桐子大、弾丸子大などと示されているが、